子どもを守れ


ルモンド紙って、フランスだっけ ^^;

「放射能汚染を生きる子どもたち:『甲状腺がんかどうかって、わかるのにどれくらいかかるの?』ナオトキ11歳、福島市」ルモンド紙(5月31日) フランスねこのNews Watching
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2011年6月 3日 (金)
「放射能汚染を生きる子どもたち:『甲状腺がんかどうかって、わかるのにどれくらいかかるの?』ナオトキ11歳、福島市」ルモンド紙(5月31日)

福島市では、子どもの服装を見ればその両親が自分の子どもの健康に対して感じている不安を推し量ることができる。放射能の影響について苦悶する家庭の子どもは、頭をヘルメットで守り、鼻と口をマスクで覆い、防水性の生地でできた服を着て登校する。その防水性の服を、家庭では毎晩洗うのである。それ以外の子どもたちは、頭も腕も覆わない。

「時々重装備の子どもたちは、(何もしなくていい)友達をうらやましがるんです。」

母であり教員であるサトウ・ミユキは、心配する両親たちのグループの方に入る。

「子どもたちはコートを脱いで、道端に置いてきちゃうんです。親は怒るんですけどね。」

しかしそんな両親の怒りは、彼らが4月20日以来日本政府に感じている憤怒に比べれば、何でも無い。この日政府は、3月11日に事故が起きた福島原発の放射性物質に汚染された地域に居住する大人・子どもへの年間被曝限度量を、20ミリシーベルトに決定したのだ。すなわち、この限度量以下の放射線量レベルの地域では退避が必要とは認められない。20ミリシーベルトという限度量は、通常認められている量の20倍であり、原子力業界で働く作業員に適用される数値に相当する。

人々の温和さで知られる人口30万人の県庁所在地、福島市は、原子力発電所が引き起こした2つの災難によって、湯を沸かしたような大騒ぎとなった。第一番目の災難は、「福島市」の名が、福島第一原発から60キロの距離にあるにもかかわらず、原子力発電所による大事故に常に関連付けて語られるようになったこと。第二番目の災難とは、福島市の北部と東部にある地区、そしてこれらの地域にある学校で、数カ月の間「20ミリシーベルト」という(既に非常に高く設定された)被曝量の上限に近い放射能汚染を生きなければならなくなったこと、である。

「日本政府は私たちが避難するのにかかるお金を払いたくないから、被曝限度量についての決まりを変更したのです。」

二児の母、ニシハラ・カナコは政府決定の背後にある意図を告発する。カナコは、自らの意思で福島市から引っ越しをする準備を始めた。

「私たちの息子たち、娘たちは、もう自由に公園で外気にあたることができなくなりました。学校では一日中窓を閉め切った教室に閉じ込められて、休憩時間も外に出られないんです。」

カナコの友人、サトウ・ミユキが言う。

「日本政府は、私たちの子どもたちを実験用のモルモットにするために(放射能に汚染された地域を)『危なくない』と言っています。低い放射線量に長い期間あたった場合の健康への影響がまだ知られていないからという理由で、政府は私たちの子どもたちを使って『実験』を行っているのです。」

ハツザナ・トモコは憤る。彼女は事故が起きて以来の2カ月、この件に関する全ての文献を読みあさった。
3人の女たちは共通の憤りを、中手聖一が立ちあげた、子どもたちを放射線から守るための「福島ネットワーク」での活動に注いでいる。「福島ネットワーク」は携帯メッセージ、ツイッター、フェイスブック、といったあらゆる現代的手法を使って日本にこれまで無かった運動を繰り広げており、日本政府が示してきたやる気の無さと数々の妥協に、鉄杭を打ち込む抗議運動を展開している。「ネットワーク」は福島市の教育委員会に放射能に汚染された学校のグランドの土を提出し、デモのために東京にまで足をのばした。

ネットワークは数々の公開討論会で、福島県庁に対し助言を行うために出向している長崎大学所属の専門家、山下俊一教授(注:現「福島県放射線健康リスク管理アドバイザー」)に対して休む間もなく疑問をつきつけている。山下教授は「20ミリシーベルトという被曝限度量は危険などではなく、住民は諦めてこの基準を受け入れるべきだ」、と繰り返し繰り返し述べ続けているからだ。

「私は全福島県民の敵になりました。」

山下教授は、福島県庁内の自分のオフィスで溜息をつく。

「私が3月半ばに来た頃はまだ良かったのですが。恐れをなした住民達は、まだ私の言うことを聞いてくれた。でも反原発運動が盛り上がりインターネット上に様々な噂が流れた後は、もう誰も何も聞いてくれなくなりました。」

インターネット上で人々を最も動転させている話題の一つは、「住民のパニックを避けるために」食品への放射能汚染の度合いを測る検査でいんちきが行われている、というものである。

夕方になり、私たちルモンド紙の取材チームは、フランスに助けを求める手書きの手紙をハツザナ・トモコから託された。そしてその後、うちに「解毒食」を食べに来ないか、と誘われた。あらゆる放射能汚染を避けるために、トモコが丁寧に選んだ食材で作られた食事である。テーブルにつくと、トモコの11歳の息子、ナオトキが訪問者が来た機会をとらえて、少年の心を打ちのめし続けている問題について質問した。

「甲状腺がんかどうかって、わかるのにどれくらいかかるの?」

少年が感じる恐怖は、母親の心配で10倍にも跳ね上がった。

私たちは様々な議論を展開して少年を安心させようとした。しかし、私たちの議論は母親から厳しい反論にあった。

「あなた方は、ご自分の子どもを年20ミリシーベルトもの放射線で被曝させたいとお考えなのですか?」

答えはノーだ。ましてや非常にゆっくりとしか放射能汚染の問題に対処しなかった福島市のような町に子どもを住まわせたいとは思わない。最も汚染された学校でも、校庭の土の入れ替えは新学期が始まってから2カ月もたった後で行われることになった。なぜこのように時間がかかったのか、とのルモンド紙からの質問に対して、市は「最も適切な解決方法を確認するために時間が必要だったため」と回答している。郡山市は素早く対応したものの、削り取った後のセシウムに汚染された校庭の土の持って行き場が無いまま、現在に至っている。

5月27日、日本政府は汚染地域の除染に関し、必要な対応策を全て取ると発表した。そして紛糾を打開するために、とりあえず象徴的な勝利を福島の子どもたちの両親の側に宣言した。文部科学省の大臣は、「可能な限り早期に」子どもの被曝限度量を1ミリシーベルトに引き下げたい、と述べたのである。しかしそんな約束も、福島に住む両親たちの不信感を長い間は抑えつけられはしないだろう。

(Jerome Fenoglio, ≪ A Fukushima, l’air du soupcon ≫, Le Monde, 2011.05.31)

---転載終わり